要旨:
芥川龍之介『蜘蛛の糸』。カンダタがお釈迦様が垂らしてくれた蜘蛛の糸にすがって地獄からの脱出を図る。振り返ると無数の亡者がわれもわれもとすがってくる。「この蜘蛛の糸は俺のものだ、下りろ、下りろ」と叫んだ瞬間、糸が切れて自分も地獄へ再転落してしまう、という誰もが知る話。
だがこのとき、掴んだ手の下のところで糸が切れればカンダタだけは助かった。ゆっくりと徐々に引けば手の上で切れ、一気に引くと下で切れる。ニュートンの慣性の法則の教えるところである。芥川はニュートンの法則を知っていたのかしら。
たぶん芥川龍之介は、ニュートン力学なんかには関心がなく、自分の「みんな一緒」哲学を強調したかったのであろう。芥川龍之介の考えは、「みんな一緒に極楽に行くことを考えるべきだ。自分だけ助かろうとする根性はさもしい。みんな一緒に極楽に行くのでなければ、みんな一緒に地獄に留まれ」というもの。考えてみれば、まことにニッポン的な「みんな一緒にお手々つないで仲良く楽しく」哲学ではないか。この哲学は昨今始まったものではないのである。
この芥川哲学は、みんな一緒に大国化し、みんな一緒に惨めになり、またみんな一緒に経済発展した昭和の時代には、確かな合理性を持ったものであった。でもいまからの時代はどうなんだろうね。
昨今の政治を見ていると、ニッポンは確実に「アルゼンチン化」しつつあると思う。第二次大戦前までは、世界一の生産性を誇ったの農業部門の存在のおかげで世界有数の豊かな国であったアルゼンチンも、稼ぎのある農業部門からオンブに抱っこの工業部門に所得を移転するというペロン以降のバラマキ・ポピュリズム政治のおかげで、稼ぎ手である農業部門は全くやる気と勢いをなくし、人のおカネに頼る工業部門はいつまで経っても発展途上のままで、結局国民は完全に生産意欲を失い、「政府からいくら貰えるか」ばかりを気にする国民に成り下がり、国は急速に衰退していった。「農業」と「工業」を置き換えると、全くいまのニッポンでそのものある。
苦しいときは「みんな一緒に堪え忍ぶ」というのは道徳的な意味もあるが、「みんな一緒に人からお金を貰うことばかり考える」というのは、道徳的堕落としかいいようがない。こんな「みんな一緒」からは、自分だけでも脱出を図るべきである。
そのためには「ニュートン力学」ばかりでなく、いろいろ勉強しておく必要があるね。
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